プロフィールのようなもの
 
何から話したらよいでしょうか。
私の母方の祖母が現在も住んでいるのが、茨城県の千代田町です。千代田町は私の幼少のころはまだ、千代田村と呼んでいまして、近所には牛や豚を飼っているお宅もありました。
牛舎や豚舎の近くを歩くと何ともいえない臭い匂いがして、「茨城って田舎だなー」っていつも思うのでした。

初めて訪れたのは小学2年生のとき。このとき初めて千代田村の家に連れて行かれました。3歳年上のいとこがいたこともあり、すぐに仲良くなりました。長期の休み(夏休みや冬休み)のときは、必ずと言っていいほど連れて行ってもらいました。

よく連れて行ってもらったのが、土浦にあった土浦京成百貨店です。1989年に土浦京成百貨店は閉店してしまい、現在は駐車場になっています。京成百貨店は私にとって遊園地みたいなところでした。5階?にあったゲームコーナーで、いつもメダルゲームやテーブルゲームをしていました。ゲームは鍵で筐体を開けてもらい、コインボックス近くにある赤いボタンを5,6回押してもらって、無料で遊ばせてもらいました。なぜ無料でゲームができたかというと、土浦京成百貨店の経営に関わっていた故・岩波健一氏とは非常に近しい関係だったからです。(これに関してはこれ以上書けません)
ゲームはクレイジークライマーやパックマン、ギャラクシアンをしました。
霞ヶ浦土浦入りにあったヨットハーバーに連れて行ってもらい、ゴーカートやミニカートなどにも無料で乗せてもらいました。これは、当時の経営母体であった常陽商事が同じように岩波健一が経営していたからです。現在はゴーカートもミニカートも無くなってしまいましたが、その当時の形跡を読み取れる場所はいくつもあります。

こういう楽しさが詰まった場所が茨城県土浦市だったので、田舎に行く楽しみのひとつに、「土浦京成百貨店に行ける」というのもありました。
京成に入るときはいつも中央通商店街の入り口から入っていました。私の思うに、当時はこの商店街の人通りも多く、賑わっていたように思います。京成の入り口を入り、すぐ左に曲がるとインフォメーションコーナーがあり、受付のお姉さんが座っています。そこを通るときに、親戚のおばさんに対し、立ち上がって会釈をしていました。そうとう影響力を持っていたのでしょう。受付をさらにまっすぐ歩くとエレベーターがあり、私といとこはいつも5階のゲームコーナーに直行して、親達の買い物が済むのを待っていました。

西友土浦店にも連れて行ってもらったこともあります。当時すでに高架道路ができていたので、昭和60年前後だったと思います。西友の壁に科学万博-つくば'85の三角シンボルマークがついていて、「ああー科学万博のだー」って思ったくらいですから、昭和60年以降ですね。西友内の本屋で宮崎駿監督の「天空の城 ラピュタ」が特集されたアニメージュを購入しましたので、●●年であることが分かります。


少し話を戻します。
当時は昭和50年代中盤。中学生になったころ、いつもと同じように長期の休みのときに田舎に行きました。いとこが「今度、茨城で万博やるんだぞ。」と言いました。“万博”と言われても実感が無く、「ふーん。万博やるんだー」くらいの気持ちしかありませんでした。
親戚のおばさんは起業家っぽいところがあって、お店を開いてはつぶしていたりしたのですが、この万博のときもお店を開くことになりました。
記憶が薄くて思い出せないのですが、万博会場の北ゲート外付近だったと思います。お店を集めた突貫工事のモールが建設され、そこの1画にお好み焼き屋を始めたのです。このモールの経営も、岩波健一氏が関与していたように思います。たしか万博がすでに始まっていて、私達の家族もお店に訪問しました。「しょぼい建物だなー」という雰囲気を覚えています。いかにも突貫工事で作った建物だったからです。お店の名前は「お好みバンブ」。バンブとは“竹”という意味があります。店内には竹で作ったイスや、間仕切りがありました。万博が始まっているのに、お店に入るとお客さんが1、2組しかいないような混み具合でした。私達家族が店に入ってしばらくすると、お客さんはお店を出て行ってしまい、閑古鳥が鳴いていました。親戚の方も「ぜんぜんお客さんが来ない」とこぼしていました。このときの似たような話が後日、新聞に掲載され、写真も載っていました。結局、お店は万博期間中、営業されず、運営をやめてしまったことを聞かされました。科学万博会場にはそのときは訪問しませんでした。


科学万博に訪問したのは、万博開催最終日前の9月15日でした。たしか土曜日で翌日の日曜日が最終日だったように覚えています。親戚の方が入場チケットを持っており、そのチケットで会場に入場しました。
くるま館のパビリオンに人気があるようで行きたかったのですけれど、いとこが「人気のあるところはかなり並ぶし、つまらないから止めたほうがいいよ」とのアドバイスで、比較的待ち時間の少ない三菱未来館に行くことになりました。入場待ちで斜めの天井が見えるところでパビリオンの入場待ちをします。三菱未来館の斜めの天井は、パンフレットにあるようなきれいな天井ではなく、並んでいる人たちが移りこんでいて「ぜんぜんイラストと違うなー」ってことを覚えています。
続いて入ったのが日本IBM館です。日本IBMは最近でこそ、パソコン事業売却などで景気のよくない話が出ていますが、当時は「さあ、これからだ!」みたいな会社でした。こちらでも入場待ちで並びました。パビリオンの中は薄暗いドームで、ドーナツ状の床があり、中央に丸い地球のようなモニュメントがあったことを覚えています。
大観覧車、テクノコスモスも行きました。並んでいる最中にコンパニオンさんが回ってきて、長方形のビニルパッケージを販売しに来るのです。そのビニルパッケージの中には、おかし(宇宙食:コズミックスナック)と、メダルが入っており、パッケージ上部にはシャギーの入ったテクノコスモスと書かれた帯がついており、その帯をコンパニオンのお姉さんが切り取ることで観覧車に乗れるシステムになっていました。そのとき食べたコズミックスナックがおいしくて、親の分ももらって食べたほどです。最近になって、コズミックスナックがおいしくなかったという話を聞くたびに、寂しい思いがします。やっと観覧車の順番が回ってきました。観覧車の箱には3人、3人で計6人乗れます。私は会場よりの窓側に据わることができ、ずっと会場全景が見渡せたことを覚えています。今思い出すと、会場全体が見渡せる、視界の一番よい席に座れたわけですから、かなりラッキーでした。テクノコスモスの一番高いところは85m。とてつもなく怖かったことも思い出せます。テクノコスモスから下りるとちょっとした広場があり、先ほどのビニル袋に入っていたメダルに、名前を打ち込んだことも思い出します。

会場内ではいたるところに出店ワゴン式のおみやげ屋さんがあり、「100円均一」みたいな感じで万博グッズの投げ売りをしていました。今だったら財産をはたいてもお土産を買いつくすところですが、当時は自由になるお金をあまり持ち合わせておりません・・・。吟味に吟味を重ねて、コスモ星丸の安全ピンがついた金色のワッペンと、キーホルダー、三井住友館の三角形のキーホルダーなどを購入しました。

だんだんと夕暮れになってきて、秋の夜。あっという間に会場は真っ暗になりました。使い捨てフィルムを借りて、三井住友館の浮き上がるキューブなどを撮影しましたが、当時は撮影技術などをまったく知らなかったので、ほとんどが写っていませんでした。
そんな感じでその日は会場を後にし、田舎の家に戻ったのです。

翌日も万博会場に連れて行ってもらえると思っていたのですが、家族や親戚の人があまり乗り気でなく、行くことはありませんでした。
その日の夜、家に帰ることになりました。
そのころは出来立ての常磐自動車道で帰ったのですが、常磐自動車道から科学万博会場が夜景の中、鮮やかに神々しい光を放っていたのを覚えています。ああー、万博会場だー。と思い、昨日の使い捨てフィルムのシャッターを2回切ったのですが、現像したらやっぱり写っていませんでした・・・。

こうして私のたった1日の科学万博は終わってしまいました。





それから何度と無く、田舎には行っていましたが、「京成百貨店がつぶれたよ」「更地になっちゃったよ」と報告を受けました。その当時は「ふーん、そうなんだー」と冷静を保っていましたが、なにかこう、大事なものを持っていかれたような気分でした。



あれから10数年以上の年月がたちました。
仕事に疲れ、ふと田舎のことを思い出します。しばらく田舎には足が遠のいていました。科学万博が行なわれていた会場はどうなったのだろう、と思う日もありました。万博に行ったときは車に乗せていってもらったので、地理的な情報がまったく分かりません。この頃は転職をした後で、生涯初めての土日休みというスタイルになったばかりの時期です。インターネット上や保存してあった万博本で万博が行なわれた位置を調べ、一大決心し、つくばに行くことにしたのです。
そのときの模様が「つくば訪問道中記」です。
最近では近所にジュースを買いに行くかのように茨城に訪れていますが、つくば訪問道中記の頃は、こんな遠出をしたことがありません。私にとって、つくば訪問はちょっとした「旅行」みたいなものです。

新しく作られたひたち野うしく駅。万博中央駅の思い出みたいなのはないのかなと、駅周辺をふらつきました。
つくばセンター。近くにエキスポセンターがあることを調査していたので、向かいます。センター内には科学万博15周年の展示展が行なわれていました。
ひたち野うしく駅に戻り、常磐線で土浦駅へ。土浦駅の東口に出ます。ここから霞ヶ浦が近いことも事前調査済みでした。
霞ヶ浦。だんだんと日が落ちる中、歩きつめるとそこは昔、親戚とよく遊びに来ていたヨットハーバーのことでした。ああー、思い出のヨットハーバーってこんなに土浦駅に近い場所だったんだーとかなり感心してしまいました。点と点が線になった瞬間でした。